2022年5月14日土曜日

ナポリの王様と呼ばれるトマトですが、ナポリ以外にも活躍の場を見つけました。シチリアではブランドトマト、パキーノが誕生します。

今日のお題はシチリアのブランドトマト、パキーノです。
pomodoro di pachino。

コルテスによって南米のアンデス山脈からヨーロッパに伝わったトマトは、チェリー程度の大きさで、緑色の部分にソラニンが大量に含まれていたため、毒があると信じられ、当初は冷ややかに迎えられました。
食用ではなく、オーナメントとして用いられていたのです。フランスの貴族の間では、トマトは女性への贈り物として定着していきます。それが媚薬効果がある、という噂を生み、フランスではトマトのことを“ポム・ダムール(愛のりんご)”と呼ぶようになります。

トマトが食用になる過程ははっきりとは分かっていませんが、少なくとも南イタリアでは、度々飢饉に襲われたナポリの貧しい民衆が、必要に迫られて食べるようになったのがきっかけではないかと考えられています。
フランスでは逆に、宮廷から民衆へと広まっていきました。
トマトはナポリの王Re di Napoli、とも呼ばれました。

下の動画はトマトのヨーロッパ到着の実写ドラマ。緑色のトマトを赤くしたのはナポリの太陽、さらに火山性の土壌がトマトの風味を強くした、という説。

こうしてナポリと深くかかわってきたトマトですが、シチリアには、チリエジーノと呼ばれる品種のトマトが広まりました。栽培が始まったのは、1925年ですが、その名が知られるようになるには50年近くかかりました。
ポモドーロ・ディ・パキーノの基本要素は、暑さ、太陽、塩の3つです。
産地はパキーノを中心とするシラクーザ県とラグーザ県の沿岸部。
気温が高く、ヨーロッパの中では年間の日照時間が最長の部類に入る地方です。水路の水の塩分濃度も適切で、他の地方より、トマトの再選生産期間が15~20日早くなります。
この地方でトマト栽培の障害となっていたのはぶどう畑の存在でした。
50年代に異常気象のために昼と夜の寒暖差が例外的に大きくなり、トマトの栽培も大きな被害を受けました。
それ以来、ハウス栽培の技術開発が進み、60年代にほぼ完成。さらにぶどう栽培の減少に伴って70年代にはパキーノの生産量は増大します。2003年にはIGP製品になりました。

パキーノトマトのハウス。


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イタリアの料理月刊誌の日本語解説『(CIRクチーナ・イタリアーナ・レジョナーレ)
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