2010年6月28日月曜日

ナポリと乾燥パスタ

スパゲッティの歴史編、その7。

パスタの歴史を知れば知るほど、乾燥パスタと生パスタは、まったく違う歴史を持っていることが分かりますねえ。

作ったらすぐに食べる生パスタと違って、乾燥パスタは保存と輸送が可能です。
つまり、大量生産に適しています。
大量生産すれば価格も安くなる。
ということは、人口の多い都市部にはぴったりの食べ物です。

麺を乾燥させるには、風通しと日当たりのよい場所が必要です。
ただ日当たりがよいだけだと、麺は外側から乾燥していくので表面だけがカチカチに固まり、中の水分が蒸発できなくなってしまいます。
そのため、湿気を含んだ海風によって表面の乾燥を防ぎながら暖かい空気で全体を乾燥させる、ということが必要になります。
つまり、海風が吹いて太陽の日差しがたっぷりある場所なら最適です。

さらに、出来上がった製品を大量に運ぶには、港も必要です。


これらの条件にぴたりと当てはまった町がナポリでした。

ナポリはその昔シチリア王国の一部で、一時は王国の首都がパレルモからナポリに移ったこともあります。
シチリアから乾燥パスタが伝わって、広まっていく条件は整っていました。


ただ、昔の乾燥パスタは、現在のものとはちょっと違っています。

まず、スパゲッティという名前。
この単語が辞書に初めて載ったのは1800年代半ばのこと。
それ以前は、マッケローニ、ヴェルミチェッリなど、様々な名前で呼ばれていました。

ナポリ人が「マンジャマッケローニ(マカロニ食い)」と呼ばれていたのはよく知られた話。
ナポリでは、“マッケローニ”はパスタ全般のことを意味し、ショートパスタのマカロニもスパゲッティもブカティーニも、全部マッケローニと呼んでいました。


そして、現在のスパゲッティからは想像もできないのですが、昔は乾燥パスタ用の生地は素足でこねていました。

1833年にナポリ王のフェルディナンド2世が「もっと衛生的な方法を考えるように」と命じるまで、この方法でこねていたのだそうです。
王様の命を受けて、チェーザレ・スパダッチーニという人が考え出したのが、“ブロンズの足”を持つ機械。
ただ、これは実用化はされなかったようで、実際には水力でこねる機械が導入されました。

麺を通すダイスは、最初は木製でした。
やがてブロンズのものが作られ、さらにテフロン製のものができます。


大量生産の申し子である乾燥パスタは、新しい技術が開発されて生産量が増える度に、テリトリーを広げていきました。

まず、水力を利用して機械を動かす技術が普及すると、ナポリで“マッケローニ”が定着しました。
19世紀になって乾燥過程を人工的に行う設備が考え出されると、乾燥パスタの大規模工場がイタリア各地に作られました。
これによって、乾燥パスタはイタリア中に広まります。
そしてついには世界中に広まって、イタリアを象徴する食べ物へとなっていきます。


乾燥過程が人工的にできるようになった時点で、ナポリの役目は終わってしまったのでしょうか。

ある意味、そうとも言えます。
ところが、19世紀以前の技術は消えなかったのです。

スパゲッティの話、次回に続きます。



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関連誌;『クチーナ・エ・ヴィーニ』2008年6月号
“パスタ”の記事の解説は「総合解説」07&08年6月号に載っています。

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2010年6月24日木曜日

乾燥パスタのルーツ

スパゲッティの歴史編、その6。

イタリアで最初に乾燥パスタを大量生産した町と言われているシチリアのトラビーア。
前回も紹介しましたが、町のホームページにも載っている『パスタの絵』(下)には、年号が4つ記されています。

トラビーア1154年、ジェノヴァ1244年、ナポリ1295年、ボローニャ1338年。

これらは、現在発見されているパスタに関する最古の記録が書かれた場所と年です。

1154年、シチリアのトラビーアで、乾燥パスタと思われる麺が大量生産されているという記録。
1244年、ジェノヴァで、医師の処方箋の中に初めて「パスタ」という言葉が登場。
1295年、ナポリ王国のマリア王妃がパーティーのために乾燥パスタを購入し、初めて乾燥パスタの販売が記録される。
1338年のボローニャは、残念ながら不明(汗)。






一口にパスタと言っても、古代にはゆでて食べる習慣はなく、古代ローマのパスタとみなされている“ラザーニャ”は、かまどで焼いて食べるものでした。
麺よりパンに近いイメージです。
一方、トラビーアのパスタは“糸状”で、船に乗せて島の外に運んでいたところから、乾麺だったと考えられます。
ということは、ゆでて食べていたのでしょうか。
スパゲッティのイメージにかなり近くなりますね。
両者の違いは決して小さくありません。
はたして、古代ローマのラザーニャとスパゲッティは、同じルーツを持つ食べ物なのでしょうか。


イタリアでは、乾燥パスタはアラブから伝わったとする説が有力で、まず、アラブ人が支配していたシチリアに伝わったと考えられています。

アラブ人によるシチリアの侵略は9世紀前半に始まり、902年には全島が征服されました。
この後、1130年にノルマン人の王朝ができるまで、アラブの時代が続きます。

アラブ人は、パスタを乾燥させて保存食にしていたと言われています。
ご存知の通り、乾燥パスタと生パスタでは、使う小麦粉の種類が違います。
乾麺は硬質小麦粉(デュラム小麦粉)と水で作り、生麺は主に軟質小麦粉と卵で作ります。
軟質小麦粉でスパゲッティは作らないですよね。

硬質小麦は日当たりのよい乾燥した土地、つまり南イタリアでよく育ち、軟質小麦は穏やかで湿気のある場所、つまり北イタリアのポー河流域でよく育ちます。

と言う訳で、シチリアのパスタは硬質小麦から作ったものでした。
ということは、アラブから伝わったにせよ別のルートにせよ、乾麺だった可能性が高くなります。
乾麺なら、長期間保存できるので遠くまで輸送でき、シチリアの外に広まる重要な要因になります。
また、小麦や小麦粉の状態で硬質小麦を栽培していない北イタリアまで運び、そこで乾燥パスタを作ることもできます。
北イタリアの主要な港があったジェノヴァは、小麦の取扱高が地中海一でした。
この町でパスタの古い記録がたくさん発見されているのは、パスタ産業が発達していた証拠です。
医師の処方箋もその一つ。
製麺業も盛んになり、1574年にはパスタ職人の組合が結成されています。


スパゲッティの歴史にはまずシチリアが登場し、次に遠く離れたジェノヴァが登場しました。
両者の間には小麦という共通項があった訳です。

そして次はいよいよナポリの登場です。
スパゲッティの故郷ではないにも関わらず、スパゲッティの本場として世界中が認めるナポリ。
そこには一体、どんな歴史があったのでしょう。


スパゲッティの歴史編、次回に続きます。



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関連誌;『クチーナ・エ・ヴィーニ』2008年6月号
“パスタ”の記事の解説は「総合解説」07&08年6月号に載っています。

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2010年6月21日月曜日

スパゲッティの故郷

スパゲッティの歴史編、その5。

アラブルートの話の続きです。

12世紀にシチリア王ルッジェーロ2世に仕えたアラブ人の地理学者、アル・イドリーシー。
彼は、世界初の詳細な世界地図を作った人物です。

アル・イドリーシーの地図
アフリカは北部だけが描かれていてます。
東南アジアから東はありません。

簡略版


アル・イドリーシーは、同じ頃にこの地図の解説も書き記しています。
『ルッジェーロの書』と呼ばれるこの解説も有名なもので、地図と共に当時の地中海世界に大きな影響を与えました。

この書は地理だけでなく、シチリアの伝統や習慣についても記録しています。
その中に、トラビーアという町について書かれた部分があります。
トラビーアは、パレルモから海沿いに30kmほど東に行ったところに今もある町です。

それによると、町は水車のついた粉挽小屋がたくさんある平野で、町で作った“itriya”をカラプリアなどに売っていたそうです。
船でイスラム教国やキリスト教国にも運んでいたそうです。

アラビア語で「糸」はtria。
そしてitriyaとは、「糸のような形のパスタ」のこと。
つまりスパゲッティ?

パスタに関する記述はこれだけのようですが、itriyaがスパゲッティの類だとすると、これはイタリア最古のパスタの大量生産の記録であり、イタリア最古の乾麺の記録ということになります。

当時のシチリアは、シチリア人、ノルマン人、アラブ人、ギリシャ人などからなる多国籍社会。
パスタがアラブ圏から伝わった可能性はあります。
よく言われているのが、遊牧民が移動生活に便利な乾麺を作っていたという説。
でも、アラブ世界でパスタが一般的な食べ物だったという記録はないそうで、疑問の余地も大いに残しています。
そもそも、砂漠でパスタをゆでるって、ちょっと無理があるんじゃ・・・。
アラブ人の航海用の保存食だったという説もあるそうですね。


アラブ人から伝わったかどうかは別として、現在のトラビーアの町のキャッチフレーズは、「スパゲッティの故郷」。

トラビーア市のhpには、ローマのパスタ博物館所蔵の『パスタの絵』が誇らしげに載っています。




トラビーア1154年、ジェノヴァ1244年、ナポリ1295年、ボローニャ1338年と書いてありますねえ。
各町で見つかった歴史的なパスタの記録が記された年ですね。



スパゲッティの歴史の話、次回に続きます。



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関連誌;『クチーナ・エ・ヴィーニ』2008年6月号
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2010年6月17日木曜日

マルコ・ポーロ伝説の真実?

スパゲッティの歴史編、その4。

ちょっと話は戻りますが・・・
イタリアのパスタがどうやって誕生したのかについては、中国から伝わったという説と、アラブから伝わったという説が有名ですよね。
一番有名な「伝説」は、1279年に中国からイタリアに戻ったマルコ・ポーロが麺を伝えたという中国由来説。
でも、中国説はイタリアでは簡単には受け入れられないようです。
特にスパゲッティのルーツとは、誰も思っていない雰囲気。

たとえば、マルコ・ポーロの話は、アメリカのパスタ業界がアメリカにパスタと硬質小麦の栽培を根付かせるために作ったおとぎ話なんだそうです。
しかも、『The Oxford companion to food 』(Alan Davidson,Tom Jaine著)によると、それは1929年に『Macaroni Journal』というアメリカの雑誌に掲載された長文の広告で、完璧に冗談のつもりで書かれた内容なんだそうです。

そもそもこの話は、イタリアではマルコ・ポーロが戻るまでパスタは一切知られていなかったということが前提になっています。

それによると、マルコ・ポーロは1人のイタリア人の船員と共に東シナ海を航海していました。
この時点で、喜望峰の発見より数世紀前に?という疑問が浮かびますねえ。
水を補給するために上陸した時、女性たちがなにやら生地を練っている姿を見た、と船員が報告してきました。
そこでマルコ・ポーロと船長は、その様子を再現するように言います。
その船員の名前が、なんとマカロニMacaroni。
本では、「これを読んで冗談だと思わない人はいないはずだが、この話の何かが大衆心理のつぼをとらえてしまったようだ」と分析しています。

まったく、こんなどうしようもない話をみんな真剣に議論していたのかと思うと、軽く怒りがこみ上げてきますよねえ。

このMacaroni Journal、アメリカパスタ協会が発行していたもので、現在はPasta Journalというタイトルになっているそうです。
アメリカパスタ協会のサイトを見たら、「誰がパスタを発明したのか」というトピックがありました(こちら)。
そこには
「マルコ・ポーロが極東からイタリアにパスタを伝えたという有名な伝説がありますが、紀元前4世紀のエトルリアの遺跡にパスタを作っていたと思われる痕跡が残っています」
という説明が載っています。
Macaroni Journalの話は完璧にスルーですねえ。

イタリアのデルヴェルデのサイト(こちら)では、
「中国で栽培されていた小麦は軟質小麦なので、乾麺には適しません。
だからマルコ・ポーロの話は何かの誤った解釈から生まれたのでしょう」
という説を載せています。
これを書いた人も、Macaroni Journalの話を知ったらブチ切れそうですよ。


中国起源説は否定的な話がいくつも出てきますが、一方で、アラブ起源説とは、どういうものなのでしょうか。

イタリアのパスタとアラブの関係を伝える最古のものとして知られているのは、1154年頃の文書です。
書いたのは、Al-Idrisiというアラブ人(正確には北アフリカのベルベル人)の地理学者。
地中海諸国を旅した後に、シチリア王に招かれて、1145年頃にシチリアの宮廷に仕えるようになりました。
当時のシチリアは、ヴァイキングことノルマン人によるノルマン朝シチリア王国の時代。
彼を招いた王様は、シチリア王国の初代の王、ルッジェーロ2世。
当時のシチリアは、イタリア人、ノルマン人、アラブ人など様々な民族によって構成されていました。


その文書の内容は次回に。



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関連誌;『クチーナ・エ・ヴィーニ』2008年6月号
“パスタ”の記事の解説は「総合解説」07&08年6月号に載っています。

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2010年6月14日月曜日

イタリア最古のパスタの痕跡とアピキウス

スパゲッティの歴史編、その3です。

スパゲッティはパスタの一種。
パスタとは、穀物の粉と水や卵をこねて平らにした発酵させない生地をゆでた食物のこと。

そのルーツはいったいどこにあるのか・・・。

『クチーナ・エ・ヴィーニ』の「メイド・イン・イタリー特集」では、こう言いきっています。

「パスタはパンと同じで、自然発生的な食べ物だ。
そのため、最初に小麦と水をこねたのは誰かとか、それを干して保存や輸出ができるようにしたのは誰かということを探し出すのは不可能と言ってよい」

まったくその通り。
つまり、中国だ、いやアラブだ、という議論に、答えは見つからない。
これが大前提。

でも、パスタがイタリアという国で大発展を遂げたのは疑問の余地のない事実です。
スパゲッティに至っては、世界中どこに行っても「スパゲッティ」という言葉が通じるほどで、もはや一国の食文化の壁を越えてしまいました。

いったいどうやって、パスタはイタリアの国民食になっていったのでしょうか。


人類が穀物を栽培するようになったのは新石器時代、紀元前8000年頃のこと。
そしてすぐに穀物を挽いて粉にすることを覚え、さらに水とこねることを覚えたと言われています。
現在、イタリアのパスタの歴史を語る時に「最古の痕跡」として登場するのは、紀元前4~3世紀のものです。
19紀に発見されたチェルヴェーテリ(ラツィオ州)のエトルリア時代の墓の遺跡に、それはありました。



「レリーフの墓」, photo by Roby Ferrari

その名の通り、壁には、日常使う道具が浮き彫りされています。
その中に、パスタ作りの道具と思われる麺棒、円盤つきのカッター、小麦の袋がありました。


これがパンではなくパスタを作る道具と判断されたのは、カッターがあったからでしょうか。
当時の人たちは、どんな形のパスタを作っていたのか。
ラザーニャかタリアテッレの一種、という説が一般的です。


遺跡と言えば、ポンペイからパスタの痕跡が発見されたという話は聞いたことがないような・・・。
実は、このエトルリアの遺跡の次に古いパスタの“痕跡”は、一気に12世紀に飛びます。
その間、ラテン文学やギリシャ劇などに、“laganum”など「ラザーニャ」に近い言葉は、度々登場しています。
ただ、それらは生地を鉄板で焼くものだったり、パイに蓋をするものだったりと、現在のパスタとはかなり違うものだったと想像されます。
もちろん、これらもパスタとみなす人も大勢いますが。


古代ローマの最初の料理集と言われる、アピキウスの『De re coquinario』に登場する“ラザーニャ”も、パイに蓋をするためのものでした。

余談ですが、このアピキウスは人物像がいまだに謎で、紀元前の共和政ローマ時代から紀元2世紀頃に渡って、少なくとも3人の有名な“アピキウス”が存在しているのだそうです。
『De re coquinario』は、直訳すれば「料理法」。
アピキウスたちの時代より後の紀元230年頃に、Celioという料理人がアピキウスのものとして編集したと言われる10冊からなる料理集です。
実際には数世紀に渡って編集されたもので、雑なメモのような、解読が大変な内容のものだったそうです。
でもこれが、現代人が推測する古代ローマ料理の主要な資料となっています。


12世紀になって、私たちがパスタと呼ぶものに相当近いと思われるものの痕跡が記されました。
マルコ・ポーロより前の時代です。
それはなんと、パスタを大量生産する設備の記録でした。

この話、次回に続きます。



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関連誌;『クチーナ・エ・ヴィーニ』2008年6月号
“パスタ”の記事の解説は「総合解説」07&08年6月号に載っています。

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2010年6月11日金曜日

マルコ・ポーロ

スパゲッティの歴史編、その2です。

スパゲッティの歴史を語る時に必ず登場するのが、マルコ・ポーロ。
マルコ・ポーロが中国からイタリアに麺を伝えた、という伝説です。


13世紀の人マルコ・ポーロは、イタリアが誇る大探検家。
イタリア語のwikiには、「人類史上最も偉大な探検家の一人とみなされている」と書かれています。


ドラマにもなりました。






マルコ・ポーロは、1254年ヴェネチア生まれ。
ポーロ家は裕福な商人でした。
マルコ・ポーロの旅には、父親と叔父も同行しています。
1271年、彼らはシルクロードを通って中国に入ります。
当時の中国は、モンゴル人が支配する元の時代。
マルコ・ポーロ一行は、中国の朝廷に入った最初の西洋人となったのでした。
帰国後、マルコ・ポーロはジェノヴァの獄中で、ピサーノ・ルスティケッロという小説家に旅の話をします。
それをルスティケッロがフランス語で本にしたのが、『東方見聞録』。

うーん、後の世にいくらでも話が創作されてしまいそうな経歴ですねえ。


マルコ・ポーロが中国から麺を伝えたという説はとても魅力的ですが、残念ながら、それを否定する証拠があります。

『クチーナ・エ・ヴィーニ』では、マルコ・ポーロがヴェネチアに戻った1292年より前の1279年、ジェノヴァの公証人、ウゴリーノ・スカルパがポンツィオ・バストーネという人物のために作成した遺言状の遺品リストの中に、“マカロニ一箱”という項目がある、という説を紹介しています。

1244年にベルガモの医者が患者に「肉、果物、パスタは食べてはいけない」という処方をしたという記録もあるそうです。


現在、世界最古の麺とされているのは、2005年に中国青海省の遺跡で発見された、約4000年前のもの。
それ以前は麺の歴史は2000年と言われていたそうで、古いものが見つかる度に、歴史は塗り替えられる運命にあるんですねえ。

イタリアでも、この4000年前の中国の麺が、現在発見されている最古の麺として知られています。
でも、「スパゲッティよりキタッラに似ている」、「硬質小麦ではなくアワが原料」、「乾麺ではなく生麺」といったことも言われていて、スパゲッティの元祖とは簡単には認めない気満々ですが。


それでは、イタリアの最古のパスタはいつのものなのでしょうか。
次回に続きます。



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関連誌;『クチーナ・エ・ヴィーニ』2008年6月号
“パスタ”の記事の解説は「総合解説」07&08年6月号に載っています。

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2010年6月8日火曜日

メイド・イン・イタリー

今回から、スパゲッティの歴史編です。

『クチーナ・エ・ヴィーニ』2008年6月号の特集は、「メイド・イン・イタリー」。
イタリアが世界に誇る輸出食品を紹介しています。

2004年から2006年の統計(Istat)によると、イタリアでは、農業自体の生産量は減少傾向にあるものの、農産物加工品の輸出額は少しずつ増えていました。
2006年の輸出額は、世界の農産物加工品輸出国の中では、中国に次いで第9位。
ただ、輸入と輸出では、2007年の統計では輸入の方が約7%超過しています。
食品輸出国と言えども、輸出しなければ自国の消費量はとても賄いきれないのですね。

そして2008年のリーマン・ショック。
世界規模の経済危機は、イタリアの食品業界も直撃したようです。
こちらの記事によると、2009年の農産物加工品の輸出額は、前年と比べて4.9%の減少。
2010年に入って最初の2ヶ月の輸出額は2.6%上昇したようですが、その後に、今度はギリシャの債務危機など、EU圏は再び厳しい局面に突入。

ただ、このところのユーロ安は、EUの輸出産業にとってはプラスで、景気回復の要因になるとの見方もあるようですね。


荒波にもまれているイタリアの食品業界ですが、イタリアが誇る輸出食品には、どんなものがあるのでしょぅか。

2007年の統計(Istat)によると、輸出額が最も多いのは青果類。
2位は僅差でワイン。
そして3位がパスタ。
金額はワインの半分弱。
この場合のパスタとは、加熱済みのもの、詰め物入りのもの、調理済みのものも含みます。
さらにチーズと乳製品、オリーブオイル、トマトとトマトソース、チョコレートとカカオベース製品、生ハムなど豚牛肉製品、コーヒー類、果汁類、米、ミネラルウオーター、ジェラート、ビネガーと続きます。


イタリア産パスタの最大の輸出先はドイツです。
総輸出額の21%を占めています。
次はフランスで13%。
日本はアメリカに次いで5位で5%。

『クチーナ・エ・ヴィーニ』によると、アメリカで最初にパスタを輸入したのは、第3代大統領のトーマス・ジェファーソンなんだそうです。
1800年頃に大統領だった人です。



ラシュモア山の大統領の彫像、左から二人目がジェファーソン
photo by dean.franklin


イタリアのパスタが初めて日本に輸入されたのは、いつ頃なんでしょうねえ。
ひょっとしたら、戦後にアメリカ経由で輸入されたなんていうのもありでしょうか。



スパゲッティの歴史の話をする時に、避けては通れないのがパスタの起源。
次回はこの話です。


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2010年6月3日木曜日

マスカルポーネ

今日はマスカルポーネの話。
『ヴィエ・デル・グスト』の記事の解説です。



Mascarpone, photo by DavidErickson


ティラミスのおかげで日本にも定着しましたねえ。


Tiramisu, photo by Sifu Renka



このチーズ、その最大の特徴は、なんと、「チーズの味がしない」ということ。

マスカルポーネは、外見、味、製法のどれを取っても、いわゆるチーズより、製法的にはチーズに分類されないリコッタの方に似ています。

そもそも、マスカルポーネは、いったいどうやってできるのでしょうか。
その製法は、案外知られていない気がします。

マスカルポーネの原産地はロンバルディアのローディとアッビアテグラッソ地方。
この地方の方言で、「ミルクのクリーム」という意味の“マスケルパ”という言葉がマスカルポーネの語源、という説が知られていますが、他にも諸説あります。

たとえば、“マルケルパ”というのはロンバルディアの一部では多い名前だそうで、「マスケルパ酪農場で作った“マスケルポーネ”というチーズが元祖」、という、大物スポーツジャーナリストの説がwikiには載っています。

でも、一番魅力的なのはスペイン語説。
いわゆる俗説というやつです。
スペイン王のある高官が、このチーズを食べて思わず「mas que bueno!」と叫んだ、という話。
“マス・ケ・ブエノ”が、どうなまったのかマスカルポーネになった、という、ちょっと強引な説です。


マスカルポーネの原料は、最も有力な語源説の通り、「ミルクのクリーム」。
つまり、牛乳から分離させたクリーム分。
これをリコッタのように高温(85~90度)に熱します。
普通のチーズならここに、子牛などの胃袋から取ったレンネットを加えて固めますが、マスカルポーネはクエン酸や酒石酸という、動物由来ではないもので固めます。
これがマスカルポーネがチーズの味がしない理由なんですねえ。
凝固したら冷やしてから水切りし、乾かして出来上がり。


今では工場で大量生産されるマスカルポーネが主流ですが、酪農場で手作りされるものは酸味があるのが特徴なのだそうです。
マスカルポーネのルーツの一つ、ローディ県の公式サイトには、レモン汁で固めると書いてあります。
なんとローディのマスカルポーネのキャッチフレーズは、「ローディの黄金」。
ローディ人は、マスカルポーネを使ったティラミスやカンノーリ・ロディジャーニを毎日食べます、とも書いてありますねえ。
「マスカルポーネの代わりにもっと安い食材で作ったティラミスもありますが、それでは“上に引っ張り上げる”だけの力は出ませんよ!」だそうです。

こちらのサイト


ローディ風カンノーリ Cannoli alla lodigiana
写真と作り方の原文はこちら

材料:
 カンノーリの皮
 刻んだへーゼルナッツ・・50g
 マスカルポーネ・・500g
 クレーマ・パスティッチェーラ(カスタードクリーム)・・300g
 ドレンチェリー

・クレーマ・パスティッチェーラにマスカルポーネを加えてなめらかになるまでホイップする。
・ヘーゼルナッツを加える。
・クリームを絞り袋に詰めてカンノーリの皮の中に絞り出し、チェリーで飾る。





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関連誌;『ヴィエ・デル・グスト』2008年6月号
“マスカルポーネ”の記事の解説は、「総合解説」07&08年6月号に載っています。

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生ハムの一番美味しい部位はガンベレットこと端っこ。

生ハムやパルミジャーノを、パルマの食文化の観点で見ると・・・。 食の都パルマのシェフが語るパルマの食文化 これはアルタ・クチーナとしてのパルマ料理ですね。 もう少し庶民的な、パルマの日曜日の家庭のプランゾの場合、スタートは、クラテッロ、パルマの生ハム、コッパ、ストロルギーノなどの...