今日は、新入荷の本、『piatti e ciccchetti da osteria』の紹介をかねて、リチェッタ以外の話が面白かったので、内容を軽く訳してみます。
「チケッティchichettiとは、ベネト特有のオステリア料理のこと。
バカロと呼ばれるオステリアで出しています↓
オステリアは、友人や仲間たちとワインを飲みながら長時間、思想やアートについて熱く語り合う場所。言い伝えによると、オステリアは紀元1000年頃、ベネチアで誕生した。
ベネチアの商人はオリエントの旅から絹やお香、宝石、スパイスなどを持ち帰っただけでなく、ビザンツやアラブから、洗練された調理方法を学び、イタリアのシンプルでスパルタ風の伝統の食文化を豊かにしていった。
これがのちにローマ帝国と結びつき、さらに地味で質素さを求める修道院の規制や、大きなパンや肉の串焼きといった蛮族、はっきり言えばロンゴバルド族の食文化が加わった。
こうして港のすぐ近くのオステリアは、最初の商取引の場所になり、テーブルには、オリエントのハーブ入りのスーゴやミネストラや魚、こょうやスパイスをまぶした肉が並んだ。
赤や白のワインは川のように流れ、ワインが大好きだったギリシャ人は、ベネトのことをエネティenetiと呼んだ。語源はenos、つまりワインだ。
オステリアはベネチアからベネト中に広まった。どの村にもワインを造るカンティーナがあり、ワインと食事を出す場所ができた。
一方で、貴族や裕福な階級は、館のサロンやチョコレートをカップで出すカフェを好んだ。
オステリアには仕事帰りや日曜のミサや祭りの帰りの市民が集った。
18世紀になると、ナポレオンに敗れてベネチア共和国が消滅する。
古いオステリアは登録が消され、食事は出さない酒だけを出す質素な宿泊所と規定された。
しかし、ベネト人は新しい形態を考え出し、新しい呼び名も考え出した。
カサノバ、ゲーテ、ダヌンツィオ、ワーグナー、スタンダールと、イタリアを旅してバカロやマルバジーアに通い詰めた芸術家は数多い。
ナポレオンの次にベネチアを支配したのはオーストリアだった。オーストリアの兵士たちはオステリアに入り浸った。が、アルコール度が高いベネトワインは、あまり彼らの好みではなかった。そこでベネトのオステリアではある食前酒が生まれる・・・。」
かなり長くなってしまいました。
続きは次回。
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