イタリア料理史のフランス革命、と言われるのがトマトの登場。
そもそも、トマトをメキシコのティノチティトラン(かつてのアステカの首都、現在のメキシコシティー)の市場で見つけたのはスペインの修道士、ベルナルディーノ・ディ・サグアン。今から5世紀前のことでした。
かなり詳細な状況が伝わっている割には、きっかけは市場で味見したという、もろ観光客感覚。
ティノチティトランなんて聞いたことないかもしれないけど、アステカ帝国の首都として、蛇を咥えた鷲がサボテンにとまっている地という信託に基づいて築かれ、大いに繁栄した都市でした。ローマの2倍の人口がいたアメリカ最大の都市でしたが、スペインに征服されて破壊されました。現在は埋め立てによってほとんど消失しています。
当時の人類の宝のようなこの都市の遺産の一つが、トマトだったのですね。
ティノチティトラン。
イタリア食材の辞書、『1001スペチャリタ・デッラ・クチーナ・イタリアーナ』
によると、スペインによってヨーロッパに伝わったトマトは、最初は赤い果実が実る観賞用の植物として広まります。
によると、スペインによってヨーロッパに伝わったトマトは、最初は赤い果実が実る観賞用の植物として広まります。
1770年にペルー王国からナポリ王国への贈り物としてトマトの種が贈られ、その種はカンパーニア、サレルノ県のアグロ・ノチェリーノ・サルネーゼAgro Nocerino-Sarnese 地方に植えられます。ここが現在のサン・マルツァーノ地方でした。
つまり、サン・マルツァーノはイタリア最古のトマトで、この地に登場したのは1900年代初めのこと。
イタリア料理史上の次の大きなポイントは、ヴィンチェンツォ・コッラードVincenzo Corradoの『Cuoco galante』による18世紀末のトマトの最初のリチェッタの登場です。クーリとサルサのリチェッタがわずか1品ずつでした。
それまで毒があるエキゾチックな観賞用の植物とされていたトマトは、おっかなびっくりじわじわと広まっていました。
ところがリチェッタの発表後わずか数年で南イタリア中にトマトが広まり、さらに、ピエモンテのチリオによるトマトの缶詰の発明は、北イタリアにトマトを広めます。
ちなみにいまや、イタリアでもっとも多く栽培されている野菜はトマト。
マルゲリータ王女とピッツァマルゲリータは、ポー川流域の平野やリグーリアでトマトが栽培されるきっかけになりました。
トマトが広まると、家庭では、トマトを保存するために瓶詰にするようになります。
そしてこの地に、フランチェスコ・チリオによって、皮をむいたホールトマトの保存食産業が興ります。
現在のアグロ・ノチェリーノ・サルネーゼのサンマルツァーノの生産。
サンマルツァーノの保存食作りが始まったのは1926年頃。そしてサン・マルツァーノは世界中に広まった。
もちろん、現在日本に流通しているイタリア産トマトの大部分はサンマルツァーノ。
サンマルツァーノ食べたことないと思っていても、すでに大量に消費しているのです。
次のテーマはトマトの保存食です。
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