2019年11月20日水曜日

プーリアの子供時代

新着本の『クチーナ・プリエーゼ』から、
la cucina pugliese



リチェッタを訳そうと思ったのですが、まずはその前に、序文を訳してみます。プーリアのグルメなインテリは、どんな子供時代を送るのか、知らなすぎて想像もできず、興味がわきました。

バーリは私の街だ。ここで生まれて、両親や兄弟と一緒に子供時代のすべてを過ごした。
私の父マリオもバーリ生まれで、「食事はみんなで食べる」という良き習慣を受け継いでいた。
食事はおしゃべりしたり笑ったり、言い争ったり、あれこれ計画したり、おいしい食べ物を称え合って過ごした。何年もたった今でも、父は厳格に毎週のメニューを守っている。
月曜は米、金曜は魚、土曜はパスタ、水曜は野菜、日曜は食後のデザートつきだ。
母のマリアは、ブリンディジ生まれで、5人姉妹の3番目だった。
南伊のすべての女性のように。母も、食べ物を情緒的なボンドのように扱った。
子供と母親をつなぎとめる接着剤のようなものだ。
そのため、ほぼ毎朝をキッチンで、その日の食事を準備して過ごした。
家族みんなの好物の味を探し、夕食には豆が体にいいからそら豆を出そう、おやつのドルチェも用意して、今晩はミネストラにしよう。今年のクリスマス用にカルテッラーテを作って味見してみようか、などと。
マリアの母親のノンナ・ニネッタは、突然やってきた20人の客のために食事を作ることもできた。
まるで1週間の予定の中にあらかじめ入っていたかのように。
揚げ菓子の山は孫全員に大喜びで受け入れられた。
家族みんなで祝う毎年のお祭りの中でも忘れられないのはギータ叔母さんのクリスマスイブのご馳走だ。
山盛りのマジパンやヌガーのトレーの間で、ビンゴをして遊び、リタおばさんの家の誕生日会では、悲鳴と叫び声の中で、フォカッチャやロゼッタおばさんのチョコレートケーキを食べた。
パスクアには、リナおばさんのご馳走のパスタのオーブン焼きを食べた。
ローラおばさんは、イタリア対ドイツのサッカーの試合の間、パオロ・ロッシのゴールを待ちながらパンツェロッティを揚げていた。具はモッツァレッラ、トマト、バジリコで。白、赤、緑の幸運の3色だよと言いながら。
こうして私は、誰かのために何かを食べて作ることがもたらす満足の意味を知った。

ところが今ではすべてが変わった。
南伊の女性は幸運なことに時代に追いつき、バリバリ仕事をして積極的になった。
その分、夕食の準備に費やす時間は減った。
1週間の食事はやりくりして決める。そして世界中の体によいものを手早く食べる。
一切れの肉とサラダ、ヘルシーな豆のミネストラ、
料理する時間はほんの少しになった。
母から娘へと受け継がれてきた伝統料理は無自覚のうちに遺産になった。
毎日インスタント食品を食べ、日曜だけは時間をかけておばあちゃんが造っていた美味しいラグーのオレッキエッテやティエッラを作る。
料理を研究して、その食材を生み出した故郷、プーリアの豊かで誇り高い大地を知る。
この本に集めたリチェッタはどれもシンプルだ。
それはプーリア料理がシンプルだからだ。
私の伝統の一部を、皆さんの伝統の一部にしたたもらいたくてこの本を作りました。

なるほど、こんな思いで彼はこの本を造ったのか。
時代が変わって昔ながらのプーリアの家族関係が消えかけた今、アラン・バイは、プーリア料理のリチェッタを広めることによってプーリアのバイおじさんになろうとしたのでした。
どれどれ、それではうちの家族で一番のインテリで美食家のバイおじさんの料理を味わってみるか。
プーリアのクリスマスのドルチェ、カルテッラーテ

南伊にお嫁に行った日本人は、世界的な歌姫を初めとして大勢いるでしょうね。
みんな頑張ってね~。
それにしても、料理をpanzerotti di zia Linaリーナおばさんのパンツェロッティ、のように、作った人の名前とその時の状況込みで覚えているのは素敵ですね。



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日本語解説
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クチーナ・プリエーゼ
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