グリーンピースとダブル主役を務める米は、
ヴィアローネ・ナノです。
リゾットにカルナローリを使うかヴィアローネ・ナノを使うかで、ピエモンテ派とヴェネト派に分かれるというのも興味深い現象。
力関係からか、どうしてもカルナローリを取り上げることが多くて、ヴィアローネ・ナノについては、情報があまりありません。
「総合解説」P.11に載せた『サーレ・エ・ぺぺ』の、
「16世紀にオリエントからベネチアやヴェローナなどのヴェネトの農村に伝わった」
という短い文章は、ヴィアローネ・ナノを知る貴重な1行。
米に関しては、自分の国のものが世界一と信じ切ってる、という意味ではイタリアも日本も似たようなものです。
でもイタリアには、日本とは全く違う米の世界がありました。
ピエモンテ州が総力編集した本『リーゾ』によると、
栽培は、まず地中海に伝わり、そこからヨーロッパに広まったと考えられています。
そのきっかけを作ったのは、例によって、アラブ人です。
8世紀頃にまずアラブ人が支配したスペインに広まり、
イタリアには、十字軍やナポリ王国のスペインのアラゴン家、シチリアを支配したアラブ人によって伝わった等の説があります。
さらには中東や極東との貿易を仕切っていたベネチアによって伝わったとも言われています。
ピエモンテには、1269年に、サヴォイア家の大公がドルチェ用の米を大金を出して買ったという記録が残っています。
1348年から1352年にかけて、イタリア中に伝染病が広まり、栄養価が高くて収穫量の多い農作物が必要になりました。
14世紀半ばから16世紀にかけて、ヨーロッパは戦争や伝染病、飢饉で疲弊し、ファッロなど新しい食物に目を向けるようになっていました。
15世紀から16世紀末にかけて、米はイタリアに普及し、ルネッサンスの食物と呼ばれていました。
それと同時に問題もありました。
マラリアです。
水田は都市や主要道路から離れた場所に作るように命令が出ました。
農民の命は軽視されていたのですね。
一方で、マラリアと水田に関係はない、と主張する人々もいました。
1584年には、ノヴァーラの医者が、水田が人間に危害を及ぼすことはほとんどない、と宣言します。
それでもマラリアの媒介物の蚊が発見される19世紀半ばまで、この考えは信じられていました。
15世紀初め、イタリアには5000haの田んぼがあり、15世紀末には10倍に増えていました。
米は贅沢な食べ物とみなされていたので、法律によって管理されるようになります。
このあたりから、ピエモンテとヴェネトの米は別々の道を歩みだしたのかも知れません。
さらに、輸出品として世界中に運ばれるようになると、米は世界経済にも影響を及ぼす作物になりました。
10年前に書かれたピエモンテ州の本には、最近のイタリアの米の栽培面積は22万haに上る、と書かれています。
イタリアで米が普及するのまでの歴史をざっと知ったところで、次はヴィアローネ・ナノの話。
ヴィアローネ・ナノのことを知ることは、ヴェネトの米を知ること。
熱く語りますねー。
この米を知らなければヴェネトの米料理は語れないですね。
米の歴史の話が長くなっちゃいました。
次こそはヴィアローネ・ナノの話を・・・。
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“地方料理~リジ・エ・ビジ”のリチェッタの日本語訳は、「総合解説」2017年5/6月号P.11に載っています。
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