このところ、過去の「総合解説」の記事を紹介する話が続いていますが、今回は、“パスタ”の話。
07/08年6月号の『クチーナ・エ・ヴィーニ』の記事です。
グラニャーノのパスタ
パスタの歴史の中で、文書として明確な証拠が残っているものが紹介されています。
言い換えれば、当時のイタリアでパスタの歴史として広く認められているエピソードということになります。
まず、最初に
「パスタはパンと同じで自然発生的な食べ物だ。
そのため、最初に小麦粉と水をこねたのは誰かとか、それを干して保存や輸送ができるようにしたのは誰かということを探し出すのは不可能といってよい」
と言い切っています。
「穀物の栽培と普及は多くの古代文明で並行して起こり、気候、他の文明との交流、味覚の傾向など、様々な要素が加わって、それぞれの食習慣が形成されていった。
ただ一つ、パスタはイタリアの伝統の一つ、ということだけは疑問の余地がない」
これがイタリア人のパスタに対する基本的なスタンスではないでしょうか。
パスタにかかわらず、イタリア料理の歴史を語る時、必ず引き合いに出される本、『De re coquinario』。
全10冊に約500点のリチェッタが収録されている本ですが、著者のアピキウスの人物像はいまだに謎で、少なくとも3人の有名な“アピキウス”が違う時代に存在しているそうです。
この本には“ラザーニャ”について書かれています。
それは小麦粉がベースですが、食べるための料理というよりは、ティンバッロやパスティッチョなどのパイに蓋をするのに最適なものでした。
その後の証拠があるパスタの痕跡は、パスタを大量生産する設備についてです。
最初はシチリアでした。
1154年頃、当時のシチリアの伝統や習慣をアラブの地理学者が調査した記録、『Libro di re Guggero』の中に、
パレルモから30㎞離れたトラビーアという町に風車付きの製造所があって、ここで大量に造られた糸の形のパスタは、カラブリアだけでなく、イスラム教徒やキリスト教徒の国に輸出されている、と書かれています。
マルコ・ポーロが中国からパスタを伝えたという伝説を崩す記録もあります。
1292年に彼がヴェネチアに戻るより前の1279年、ジェノヴァの公証人、ウゴリーノ・スカルパがポンツィオ・パストーネという人物のために作成した遺言状の遺品リストの中に、“マカロニ1箱”という項目が記録されているのです。
そして1574年には、ジェノヴァでパスタ職人組合が形成されています。
パスタを最初にアメリカに輸入したのは第3代大統領のトーマス・ジェファーソンだというのは、有名な話。
フランス大使時代にイタリアにも足を延ばしてパスタに出会い、その美味しさに感心して、小さな麺用プレス器をアメリカに持ち帰ったそうです。
そして今から約10年前、パスタはイタリアの食品製造業の輸出品の中で、第3位の座を占めるまでになっていました。
総生産量の65%が輸出されていました。
パスタは世界中で生産され、イタリアの国旗の3色をイメージカラーにしてイタリア語の名前をつけたパスタが大量に販売されています。
ところが、当時はイタリア産のDOPやIGPなどの、EUの産地保証付きの製品は、まだ一つもありませんでした。
わずかに、グラニャーノのパスタだけが、唯一、IGP申請中でした。
当時はそうだったんですねえ。
メイドインイタリーの食品は、世界中に広まって、結局コピー製品が大量に出回る、というのが、この国の根深い悩みです。
でも、その後、13/14年1月号の「総合解説」では、2013年10月号に、グラニャーノのパスタが最初のIGPとして登録された、という記事を載せています。
パスタの歴史の話、次回に続きます。
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“パスタ”の記事の日本語訳は「総合解説」07/08年6月号に、“グラニャーノのパスタ”の記事の日本語訳は、「総合解説」13/14年1月号に載っています。
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