2012年3月5日月曜日

ガリバルディ・ビスケット

前回のイタリア統一の話で、イタリアの初代国王と国民的英雄ガリバルディのこと、多少はイメージできたでしょうか。

ガリバルディは、イタリア統一の数年前にイギリスを訪れたことがあって、イギリスでも有名でした。
その証拠が、イタリア統一を記念して1861年にロンドンのビスケットメーカー、ピーク・フリーンズが販売を始めたガリバルディという名前のビスケット。
なんとこれ、150年たった今ではイギリス中に広まって、あの国ではおなじみのビスケットになっています。
アメリカにも伝わって、サンシャイン・ゴールデン・クッキーとかゴールデンフルーツクッキーなどの名前で広まりました。


↓現在のガリバルディビスケット






中身



日本にもレーズンクッキーと言えば、お馴染みなのがありますよね。

東ハト オールレーズン座布団 (Animated GIF/wiggle 3D)
オールレーズン


なんだかよく似ていますねえ。

イギリスのガルバルディ・ビスケットは、ガリバルディに敬意を表して作られたもの。
ガリバルディは革命に身を捧げた人物ですが、同時に海の男でもありました。
船で世界を巡りながら戦っていたガルバルディがいつも食べていたのは、「乾パン」。
レーズンと一緒に食べるのがお気に入りだったとか。
そこで考え出されたのが、平らな四角い板状で、筋が入った部分で割って食べる乾パンスタイルのこのビスケット、と言われています。

レシピを考え出したのは、イギリスのビスケット業界では神とも呼ばれるジョン・カーという人。
当時のイギリスは、ちょうど産業革命が完成したころでした。
ビスケットも工場で大量生産するようになって、1つヒットすれば世界的規模で大流行。
ジョン・カーは、チョコレトでコーティングされたビスケットやクリームをサンドしたビスケットを世界で最初に考案しました。

代表作は、ガリバルディのほかに、世界初のクリームサンドビスケットのブルボンや、日本の“ショートケーキ”とは全く違うビスケットのショートケイク
そのどれもが、100年以上たった今でも愛されています。

Bourbons & Baileys
ブルボン・ビスケット


ジョン・カーがいたピーク・フリーンズというビスケットメーカーは1989年に廃業しましたが、その名前とレシピは各地のビスケットメーカーに受け継がれています。
また、ガリバルディのように元々は工場で作られていたビスケットも、家庭であの味を再現したいという人たちがレシピを研究して発表しています。
英米の人たちのビスケット(クッキー)にかける情熱は熱い!


こちらもその一人。


ガリバルディ・ビスケットを食べながらあれこれ熱く語っている動画もあります。



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“ガリバルディ・ビスケット”のリチェッタは「総合解説」2011年3月号に載っています。

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2012年3月1日木曜日

イタリア統一の主役たち

3月ですね。

去年(2011年)のイタリアの料理雑誌の3月号は、のきなみイタリア統一150周年特集が組まれていました。
イタリア王国の誕生が宣言されたのは、1861年3月17日のこと。
日本では、坂本竜馬が日本の夜明けのためにあれこれ模索していたころですねえ。

イタリア人にとって、イタリア統一の主役は、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世とジュゼッペ・ガリバルディ。
どちらも、イタリアのあちこちの大通りにその名がつけられているので、聞いたことがある名前ですよね。
ミラノのガレリアも、正式名はガッレリーア・ヴィットーリオ・エマヌエーレ・セコンド。

Vittorio Emanuele II
ロヴィーゴに立つヴィットリオ・エマヌエーレ2世の銅像


イタリア料理は地方ごとの個性が強力ですが、その個性が生まれた理由を探る時、歴史は重要なヒントになります。
料理を作る上で、歴史を知っておいて損はありません。
今回は、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世とジュゼッペ・ガリバルディをキーワードに、イタリア統一の時代を見てみましょうか。


まず、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世は、イタリアの初代国王。
サヴォイア家の出身で、サルデーニャ王国の最後の王様でもあります。

そもそもサヴォイア家は、サヴォイア地方を領有していた一族です。
サヴォィア地方とは、現在のフランス南東部あたり。
フランス語ではサヴォワと言います。

サヴォイア家は紀元1000年頃に誕生し、トリノの領主の一族と結婚したことがきっかけで力を得て、サヴォイア公国を造ります。
領地はどんどん広がり、ニースやジュネーヴも手に入れました。

1563年には宮廷をトリノに移します。
さらに、スペインに代わってサルデーニャの支配権を手に入れると、サヴォイア公国と合併してサルデーニャ王国を誕生させました。
そのため、サルデーニャ王国なのに首都はピエモンテのトリノ、しかもフランスの影響大、という複雑な国になったわけです。

そのサルデーニャ王国の王様だったのが、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世。


で、この王様はイタリア統一のために何をしたのか。

当時イタリアは、大ざっぱに言うと4つの勢力に分割されていました。
オーストリア、サルデーニャ王国、教皇領、そして両シチリア王国です。

両シチリア王国は、シチリア王国とナポリ王国が合体してできた国で、南イタリア一帯が領土。
支配者はスペイン系です。

サルデーニャ王国は、フランスのバックアップを受けながらオーストリアと戦って、ロンバルディア、中部イタリアと、領土を獲得していきます。
最終的にはヴェネトがオーストリアの手に残りました。

サルデーニャ王国としては、ヴェネチア、ローマ、そして南イタリアを手に入れればイタリア統一完成・・・、なのですが、なんと当時の南イタリアは、スペインに搾取されまくって貧乏のどん底で、わざわざ戦争までして手に入れる価値はない、それどころかその後の出費が大変といった厄介者。
北イタリアだけ統一すればいいだろう、という空気になりかけていたのです。


そこで登場するのが、ジュゼッペ・ガリバルディです。

Giuseppe Garibaldi
ジュゼッペ・ガリバルディ


彼はイタリア解放を望む軍事家で、義勇兵たちと各地で革命に参加していました。
その戦いぶりは一本筋が通っていて爽快で、男の中の男、といった感じ。
イタリア人には大人気の革命のヒーローです。
イタリアだけでなく、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンなど世界各地で独立戦争に参加し、アメリカやイギリスでも有名でした。

1860年にシチリアで反乱が起きると、ガリバルディは約1000人の義勇兵を集めてさっそく参戦。
そして勝利します。
その勢いでナポリまで北上し、ナポリ入城も果たします。
こうして南イタリアは彼の支配下に入ります。
さらに勢いは止まらず、教皇の存在を無視してイタリア王国の樹立を宣言しようとまでしました。

この事態に驚いたのがサルデーニャ王国。
このままだとガリバルディに主導権を握られてしまうと、あわてて南イタリア獲得に参戦します。

ガリバルディはサルデーニャ王国の宰相カヴールとそりが合わなかったため、一時はイタリア統一も紛糾するかと思われました。
ところが彼は、サルデーニャ王と対立する道を選ばず、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の望みのままに、すべての土地を献上したのです。
この出来事は、イタリア統一とガリバルディの男気を象徴する逸話として、「ティアーノの握手」と呼ばれて語り継がれています。

北と中部イタリアを支配するサルデーニャ王国に、南イタリアを支配したガリバルディがその領土を譲渡。
この時点で、イタリア統一は宣言されました。


あとはヴェネチアとローマです。

ヴェネチアを手に入れるには、オーストリアに勝たなくてはなりません。
そこでイタリア王国は、プロイセンと同盟を結んでオーストリアに戦いを挑みました。
この戦い、イタリアはオーストリアに負けてしまいます。
ところがプロイセンはオーストリアに勝ったために、結果的にオーストリアはヴェネトをイタリアに渡したのでした。

その際、フランスを仲介としたので、サヴァイアとニースをフランスに渡す見返りとしてヴェネトを受け取る、という形を取りました。
こうしてサヴォイア家発祥の地はフランス領となります。


最後はローマ。
バチカンは独立を維持しようと、フランスと手を結んでいました。
当時のローマには、イタリア軍と戦うためにフランス軍が駐留していたのです。

実は1865年に一度、フランス軍はローマから撤退しました。
ローマが欲しいイタリアと交渉して、トリノから首都を移すことを条件に撤退したのです。
この結果、首都はフィレンツェに移りました。、
ところが、血の気の多いガリバルディが義勇兵を率いてローマ奪還の戦いを仕掛けたため、再びフランス軍がローマに駐留することになったのでした。

そしてここでまたプロイセン登場です。
フランスとプロイセンの間で戦争が始まったのです。
劣勢でローマの守護どころではなくなったフランスは、ローマから軍を引き上げてしまいました。
そしてフランスはプロイセンに敗れます。
一気に弱まったローマにイタリア軍が進攻して、1870年、ローマもイタリア王国の一部となったのでした。

1871年、イタリア統一宣言から10年後に、ローマはイタリアの首都となりました。
きっと2021年には、ローマ遷都150周年のお祝いが催されることでしょうね。




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「総合解説」2011年3月号では、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディにまつわる料理を紹介しています。

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マリア・ルイジアの小さな街、パルマのバターとグラナの娘、アノリーニ。本物は牛と去勢鶏のブロードでゆでます。

昨日の最後にサラっと登場したアノリーニですが、このパスタ、(CIR12月号P.5)にもリチェッタが載っていました。クルルジョネスの次の料理です。花の形の可愛い詰め物入りパスタ、なんていうのがこのパスタの印象ですが、イタリア人は、こんな風に思ってるんですね。 「マリア・ルイジアの小...